「飛鳥・藤原の宮都」 世界遺産
「飛鳥・藤原の宮都」 世界遺産は、奈良県にある。
下記の19の構成資産がある。
令和8年6月にユネスコの諮問機関であるイコモスが、世界遺産登録にふさわしいと評価しユネスコに勧告した。
ユネスコは令和8年7月に韓国で開催される世界遺産委員会で、「飛鳥・藤原の宮都」の世界遺産登録を正式に決定する見通しである。
01 飛鳥宮跡
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史跡 飛鳥宮跡は、奈良県明日香村にある。
飛鳥宮跡(あすかきゅうせき)は、7世紀中頃から後半に造られた宮殿遺跡である。
昭和34年以来の発掘調査で、大きく分けて3時期の変遷が確認されており、王宮名は次のように考えられている。
Ⅰ期遺構 舒明天皇(在位629~641年) 飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや)
Ⅱ期遺構 皇極天皇(在位642~645年) 飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)
Ⅲ期遺構 前半:斉明天皇(在位655~661年) 後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)
Ⅲ期遺構 後半:天武・持統天皇(在位673~697年) 飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)
見つかった遺構は、飛鳥地域の歴史に止まらず、日本の宮殿の変遷を解明する上で重要な遺構と判断され、昭和47年に伝飛鳥板蓋宮跡として国史跡に指定され、その後、平成28年に飛鳥宮跡に名称変更された。
最上層のⅢ期遺構のうち、内裏に相当する内郭は一本柱列の塀で囲まれた方形区画で、正面である東西5間・南北2間の南門を入った礫敷広場には、東西7間、南北4間の前殿が建っていた。
近鉄橿原神宮前駅からバスで岡橋本下車、徒歩3分。

明日香村岡
飛鳥宮跡 (伝飛鳥板蓋宮跡)
万葉歌碑
明日香村岡 飛鳥宮跡 (伝飛鳥板蓋宮跡) 万葉歌碑は、奈良県明日香村岡にある。
石碑には、次の万葉歌が刻されている。
采女の 袖吹き返す 明日香風
京(みやこ)を遠み いたづらに吹く
志賀皇子(巻1 51)
(裏面)
明日香村
明日香文化協会
平成二十一年 弥生
(大意)
采女の袖を吹き返した明日香風は、
都が遠くなったので、ただ空しく吹いている
(揮毫者)
平山 郁夫 画家

02 飛鳥京跡苑池
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史跡・名勝 飛鳥京跡苑池は、奈良県明日香村字岡にある。
飛鳥宮跡中心部(内郭)の北西に位置する飛鳥時代の庭園遺構で、天皇が祭祀や饗宴を行ったと考えられている。
大正5年(1916)に石造物二石を発見、平成11年(1999)に石造物出土地点を発掘調査し、南北約250m、東西約100mの広大な苑池を発見した。
2003年に国史跡に指定されている。
すぐ西には飛鳥川が北流し、飛鳥川をはさんで西岸には川原寺が位置する。
門を構えた区画内に渡り堤で仕切られた石組護岸の北池と南池などがある。
南池には噴水構造の石造物がおかれ、中島が築かれていた。石造物と中島の周囲には桟敷状の施設が設置されていたと考えられている。
北池の北東には湧水・導水施設が確認された。
苑池の造営時期は斉明朝頃とみられ、天武朝頃には改修されているようである。
池の中にある水位調整用の水路からは、管理する役所と見られる「嶋宮(しまのつかさ)」や薬園の存在を推測させる「委佐俾(わさび)」といった文字が記された木簡が出土している。
「日本書紀」天武14年(685)11月条の「白錦後苑(しらにしきのみその)」あるいは持統5年(691)3月条の「御苑(みその)」にあたるものと考えられる。
当地の案内板には、復元イラストが描かれている。
近鉄吉野線飛鳥駅からバスで岡戎前下車、徒歩5分。

03 飛鳥水落遺跡
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飛鳥水落遺跡は、奈良県明日香村大字飛鳥字水落にある。
飛鳥時代の漏刻(水時計)と漏刻台の遺跡である。
昭和47年(1972)民家建築に伴う事前発掘によって貼石を伴う楼状建物が発見され、昭和51年(1976)国史跡に指定された。
史跡整備に伴い、昭和56年(1981)から全面発掘が行われ、遺跡の規模、構造、性格が判明した。
発見遺構は楼状建物とこの建物と一体で設けられた水利用の諸施設、四棟以上の掘立柱建物群、掘立柱塀などで、飛鳥の宮殿建物の中でも一級の規模と内容を誇るものである。
漏刻の仕組みは、建物内に引いた水を上から階段状の木箱へ落とし、最下段の箱に溜まった水の中に浮く棒の目盛りを読んで時刻を計り、建物上層部に設置した太鼓あるいは鐘で知らせたと考えられている。
「日本書紀」斉明天皇6年(660)5月条に「皇太子(中大兄皇子)初めて漏刻を造り、民をして時を知らしむ」とある漏刻の遺跡と判断されている。
現地案内板には、分かりやすい解説図が描かれている。
近鉄南大阪線橿原神宮前駅からバスで、飛鳥下車徒歩1分。すぐ横に明日香村埋蔵文化財展示室の駐車場がある。

04 酒船石遺跡
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史跡 酒船石は、奈良県明日香村にある。
この石造物は花崗岩製で、現在、長さ5.5m幅2.3m厚さ約1mの大きさである。
北側及び南側の一部は欠損しており、近世にどこかへ運び出されたものと考えられ、石割りの工具跡が残っている。
石の表面に、円や楕円の浅いくぼみを造って、これを細い溝でつなげている。
酒をしぼる樽とも、あるいは油や薬を造るための道具とも言われている。
昭和2年(1927)4月8日に「酒船石」として史跡に指定され、平成16年9月30日に、亀形石造物などが追加指定されたため、現在は、「史跡 酒船石遺跡」と呼ばれている。

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酒船石遺跡(亀形石造物)は、奈良県明日香村にある。
飛鳥の謎の石である史跡「酒船石」は、伝飛鳥板蓋宮跡の小高い丘陵上にあり、本居宣長らは、醸造施設と解釈し、酒船石と名づけた。
この丘陵一体に広がる遺跡は、現在「酒船石遺跡」と呼ばれている。
平成4年に丘陵北斜面で砂岩石垣が発見されたことから、「日本書紀」の斉明天皇2年条に記された「宮の東の山に石を累(かさ)ねて垣とす。」「石の山丘」に符合する遺跡であると推定されている。
平成12年の丘陵北裾で行われた発掘調査で、新たに亀形石造物、小判形石造物が見つかった。
小判形石造物の直径4cmの穴から上澄み水が亀形石造物に流れる導水施設で、周囲には石敷きが広がり、東西には石垣が見つかっている。
この遺構は、斉明天皇の時代に造営され、何度か改修されながら平安時代に廃絶されるまで、約250年間存続したことが判明している。
導水施設の性格については、天皇祭祀に関連するとの説が出されている。
2004年9月に亀形石造物などが国史跡に追加指定され、、名称も「史跡酒船石」から「史跡酒船石遺跡」に改められた。
近鉄橿原神宮前駅からバスで万葉文化館西口下車、徒歩3分。奈良県立万葉文化館の駐車場が利用できる。
05 飛鳥寺跡
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飛鳥寺は、奈良県明日香村にある新義真言宗豊山派の寺院である。
法興寺、本元興寺(もとがんごうじ)、安居院(あんごいん)とも呼ばれる。
蘇我馬子が建立した日本最初の本格的な寺院で、推古天皇4年(596)にほぼ造営が終わり、推古天皇17年(606)には止利仏師作の本尊の釈迦如来坐像が安置された。
昭和31年(1956)の奈良国立文化財研究所による発掘調査の結果、塔を中心として、北、東、西の三方に金堂を配し、これらを回廊が囲む、いわゆる一塔三金堂の飛鳥寺式伽藍配置であることが明らかにされた。
大化元年(645)の乙巳の変で蘇我入鹿を殺害した中大兄皇子は当寺に立てこもり、天武元年(672)の壬申の乱でも近江朝廷軍が営所とするなど、7世紀の政治の舞台となった。
藤原京時代は四大寺の一つに数えられたが、平城京遷都に伴い、養老2年(718)金堂、塔などの一部の建物を残して平城京へ移転した。
この奈良の新寺は元興寺と呼ばれ、法興寺の由緒や資材は元興寺に継承されている。
旧伽藍は仁和3年(887)と建久7年(1196)の火災によって焼失し、室町以降は荒廃したが、寛永9年(1632)と文政9年(1832)に再建された。
本尊 釈迦如来坐像は、「飛鳥大仏」と呼ばれ、鞍作鳥(止利仏師)によって造られた日本最古の仏像である。
高さ約3mで当時銅15トン、黄金30㎏を用いて造られた。
平安、鎌倉時代の火災で罹災し、後補を受けており、仏頭と右手首3本のみが往時の止利仏師作のものといわれている。
堂内の飛鳥大仏の両側には、阿弥陀如来坐像(木像 藤原時代)と聖徳太子孝養像(木造 室町時代)が安置されている。
境内には、昭和12年に建立された万葉歌碑がある。佐々木信綱博士の筆による山部赤人の長歌と、上部には、近衛文麿の筆による篆額が刻まれている。
近鉄橿原神宮前からバスで飛鳥大仏前下車すぐ。

06 橘寺跡
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仏頭山上宮皇院 橘寺は、奈良県明日香村にある天台宗の寺院である。
正式には仏頭山上宮皇院(じょうぐうおういん)菩提寺といい、通称 橘寺または橘樹寺(たちばなのきてら)と呼ばれる。
推古天皇14年(606)聖徳太子が推古天皇の仰せにより「勝鬘経(しょうまんきょう)」を講讃したとき、天から蓮華を降らせた(蓮華塚)奇瑞にちなんで創建されたといわれる。
聖徳太子が生まれたところといわれ、山門北側には、聖徳皇太子御誕生所の石碑が建立されている。
聖徳太子建立七ヵ寺の一つで、昭和28年(1953)からの発掘調査で、東を正面にして中門(現、東門付近)、塔(現、塔心礎付近)、金堂(現、経堂付近)、講堂(現、本堂付近)が、東西に一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置であったと推定されている。
承暦年間(1077-1081)には宣旨により、寺宝の玉虫厨子、金銅四十八体仏などが法隆寺に移されている。
永正3年(1506)多武峰(とうのみね)の僧兵に焼かれてから寺勢は衰退したが、元治元年(1864)に再興されて現在に至っている。
寺宝として、聖徳太子座像(室町時代、重要文化財)、日羅座像(貞観時代、重要文化財)、如意輪観音座像(藤原時代、重要文化財)、絹本著色太子絵伝(重要文化財)等を有する。
本堂の南には、通称飛鳥石といわれる石英閃緑岩(花崗岩)を加工した高さ1.2mの二面石がある。飛鳥時代の石造物の一つで、人の心の善悪二相を表したものといわれている。
橘寺は、昭和41年(1966)国史跡に指定された。
近鉄吉野線飛鳥駅からバスで川原下車、徒歩3分。参拝者用の駐車場がある。
07 山田寺跡
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特別史跡 山田寺跡は、奈良県桜井市にある。
山田寺は、右大臣 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわまろ)が発願した、飛鳥時代を代表する寺院の一つである。
記録によれば、641年に着工し、2年後には金堂が完成したものの、649年に石川麻呂が政争で自殺したため造営は中断した。
その後、本格的に造営が再開され、676年に塔が完成、685年には、現在、興福寺に仏頭が残る講堂の本尊 丈六仏の開眼供養が行われた。
1976年~1996年の発掘調査では、東西118m、南北185mの寺域に、南門、中門、塔、金堂、講堂が南北一直線に並び、回廊が塔と金堂を囲む伽藍配置であることが明らかとなった。
また、東面回廊が倒壊したままの状態で見つかるなど、飛鳥時代の建築様式を知る上で、貴重な発見が相次いだ。
蘇我氏の有力な分家であった蘇我倉氏は、舒明朝の成立前夜に滅んだ同族の境部氏に代わり勢力を伸ばし、石川麻呂は蘇我本家に迫るほどの威勢を築いていたといわれ、山田寺はそれを象徴する建造物であった。
「山田」の地名は、石川麻呂の河内国における本拠である石川地方の山田の地名を移したものと見られる。
石川麻呂はその後、孝徳天皇と対立を深め、讒言によって上記のとおり失脚した。
寺院造営の再開については、石川麻呂の外孫にあたる持統天皇とその夫 天武天皇の経済的支援があったと考えられている。
(遠山美都男氏著「蘇我氏と飛鳥」参照)

08 川原寺跡
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国史跡 川原寺跡は、奈良県明日香村にある。
川原寺は、法名を弘福寺(ぐふくじ)ともいわれている。
その創建年代については諸説があるが、日本書紀の天武天皇2年(673)3月条に「書生を聚めて始めて一切経を川原寺に写さしむ」とあることから、これ以前に建立されていた。
伽藍配置や瓦の文様が大津宮の南滋賀廃寺や大宰府の観世音寺と類似することから、天智天皇の時代(662-671)に斉明天皇の冥福を祈って建てられたものと考えられている。
天武持統朝には厚遇されていることが、史料に残されており、大官大寺、飛鳥寺、薬師寺とともに四大寺の一つとされた。
平城遷都の際に、他の三寺は新京に移ったが、川原寺は旧地にとどまり、そのためか徐々に寺格が低下したと考えられている。
平安時代初期には、空海が当寺を賜り、東南院に止住したと伝え、その後は東寺の末寺となった。
江戸時代には草堂を残すのみとなったが、寺域内に礎石が多く残っていたことから、大正10年(1921)に国史跡に指定された。
昭和32年~33年の発掘調査の結果、中金堂(現在の弘福寺の場所)の前には、東に塔、西に西金堂が配置され、中門から出た回廊がこれらを囲むようにして中金堂へとつながっていることが判明した。
また中金堂の北には講堂があり、これを取り囲むように僧房が3面にある。
川原寺で使われていた複弁蓮華文軒丸瓦は、川原寺式軒瓦と呼ばれ、天武天皇の時代には、近畿、東海地域の古代建築で見られ、壬申の乱で功績のあった氏族の寺院と関係のあったものと考えられている。
現在、弘福寺境内にある瑪瑙(白大理石)の礎石と公園内の建物復元基壇が、往時の伽藍を忍ばせている。
近鉄吉野線飛鳥駅からバスで川原下車、徒歩1分。
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仏陀山 弘福寺は、奈良県明日香村にある真言宗豊山派の寺院である。
古くは、川原寺(かわはらでら、かわらでら)と呼ばれた。→ 川原寺跡
川原寺は、天智天皇が建立した官寺で、飛鳥寺、薬師寺、大官大寺とならぶ飛鳥四大寺の一つに数えられる。
日本書紀によると、673年当時日本で初めて写経が行われた場所であることが記されている。
天長9年(832)には、空海が京都と高野山の往復に宿所として当寺を賜ったといわれている。
弘福寺(ぐふくじ)本堂には、本尊十一面観音、持国天、多聞天、十二神将が安置されている。
弘福寺本堂南には、川原寺中金堂跡礎石(柱石) 瑪瑙(めのう)の礎石がある。
境内にある28の礎石は、当時の中金堂を支えていたものである。
近鉄吉野線飛鳥駅からバスで川原下車、徒歩2分。

09 檜隈寺跡
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於美阿志神社 桧隈寺跡は、奈良県明日香村大字檜前にある。
桧隈は、百済から渡来した阿知使主(あちのおみ)が居住したと伝えられる。
神社名の「於美阿志(おみあし)」の由来は、「阿志(阿知)」が氏族名で、「於美」とは「使主(おみ)」のことで、渡来人にたいする一種の尊称、姓として用いられたもので、朝鮮語の「オム」(親とか、首長という意味)であるという。
祭神の阿智使主(阿智王)は、後漢霊帝の曽孫で、倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖として知られる。
日本書紀の応神天皇二十年九月の条には、
「倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖、阿知使主(あちのおみ)、其の子都加使主(つがのおみ)、並に己が党類(ともがら)十七県(こおり)を率いて、来帰(もうけ)り」
と記されている。
「五郡神社記」には、於美阿志神社は磐橋(いわはし)神社と称されたとあり、近世、社地は宣化天皇檜隈廬入野宮(ひのくまのいほりのみや)跡とされ、神宮寺として桧隈寺の系統をひくという道興寺(どうこうじ)があった。
桧隈寺跡は、於美阿志神社の境内にある。
「日本書紀」天武天皇朱鳥元年(686)八月条に「檜隈寺、軽寺、大窪寺、各封百戸、限卅年」と記されており、
軽寺(橿原市軽)、大窪寺(橿原市大久保)とともに三十年に限って百戸が封じられていた。
天武天皇の病気平癒のためと推測されている。
跡地には、金堂跡、中門跡、塔跡、講堂跡、回廊跡と推定される遺構があり、礎石が遺されている。
伽藍は西を正面とし、塔を中心に右(南側)に金堂、左(北側)に講堂があり、金堂、講堂は塔側を正面とする特異な配置となっている。
現在跡地には、於美阿志神社石塔婆があり、明治42年に国の重要文化財に指定されている。
平安時代後期に造立されたと考えられており、もと桧隈寺塔跡の心礎の上にあったが、昭和44年の解体保存修理で積み直され、心礎は移動して保存されている。
もとは、十三重石塔であったが、上の二重と相輪は失われている。凝灰岩製で、現在の高さは4.3m。
解体修理に際し、地下から旧塔心礎と石塔の埋納物(ガラス製小壺、青白磁合子、蓋付須恵器四耳壺)が発見され、埋納物も国の重要文化財に指定されて、現在は奈良国立博物館に収蔵されている。

10 石舞台古墳
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石舞台古墳は、奈良県明日香村島庄にある特別史跡である。
石舞台古墳は、早くから石室を覆っていた盛土が失われ、巨大な天井石が露出していたことから石舞台の名で親しまれている。
昭和8年から50年(1933-1975)の調査で、墳丘は周濠と外堤を巡らす二段築成の方墳、あるいは上円下方墳と考えられている。墳丘と外堤の斜面には、貼石(人頭大の花崗岩玉石)が施されている。
埋葬施設については、南に開口する両袖式の横穴式石室で、玄室の長さ7.8m、幅3.4m、高さ4.8mの大きさがあり、見学者が中まで入ることが出来る。
玄室は、側壁が3段、奥壁が2段の石積みで、天井は2個の巨石で覆われている。
このうち南側の石は、約77トンの重量がある。
玄室内からは、凝灰岩片が出土していることから、凝灰岩製の家形石棺が安置されていたと推定されている。
古墳の南側には、石棺の複製が展示されている。
石舞台古墳の被葬者は不明であるが、推古天皇34年(626)に死んだ蘇我馬子(そがのうまこ)の桃原墓(ももはらのはか)とする説がある。

11 菖蒲池古墳
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国史跡 菖蒲池古墳は、奈良県橿原市菖蒲町にある。
甘樫丘から西に延びる丘陵の南斜面に築かれた7世紀代の方墳である。
菖蒲池古墳は、国内で最も優美な2基の家形石棺が納められている古墳として古くから有名で、昭和2年(1927)には、石室部分が国史跡に指定された。
その後、平成21年(2009)度から4年にわたり、橿原市が発掘調査を実施し、平成27年(2015)には墳丘とその周辺の範囲が追加指定された。
菖蒲池古墳の被葬者については、具体的な人名も挙げられている。
特に近年は、菖蒲池古墳の東方で小山田遺跡(小山田古墳)が発見されたことから、
蘇我蝦夷、入鹿親子が葬られた今来の双墓(大陵・小陵)の小陵を菖蒲池古墳に充てる説や、その両者を菖蒲池古墳に葬ったと捉える説、蘇我倉山田石川麻呂が葬られたとする説などがある。
(奈良県歴史資源データベース 菖蒲池古墳現地説明会資料 参照)

12 牽牛子塚古墳
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牽牛子塚古墳は、奈良県明日香村にある国史跡である。
牽牛子塚(けんごしづか)古墳は、江戸時代にケンゴウシ又は御前塚と呼ばれていた。ケンゴウシは漢字で牽牛子と書き、アサガオを指す。
朝顔は、ヒルガオ科の一年生蔓草で、中国南西部やヒマラヤ山麓が原産地といわれる。
中国では、宋の時代からこの種子を薬用に供し、だいじな牛を牽いて薬草の朝顔にかえた故事から牽牛子(子は実のこと)・牽牛花の名が起こった。
日本へは、千二百年前、遣唐使が薬用として持ち帰ったのが最初で、粉末にして緩下薬、峻下剤として用いた。
平成21年度の調査では、牽牛子塚古墳が二上山の凝灰岩を使用した八角墳であることが明かとなった。→ 八角墳と天皇陵
そして平成22年度の調査で、牽牛子塚古墳の南東から石英閃緑岩を使用した刳り貫き式横口式石槨が検出され、越塚御門古墳と命名された。
これらの発掘調査の結果から、牽牛子塚古墳は、7世紀後半の終末期古墳で、斉明天皇と娘の間人皇女の合葬墓と考えられている。→ 車木ケンノウ古墳(斉明天皇陵)
牽牛子塚古墳と越塚御門古墳の所在する越智岡(おちのおか)(小市岡)は、高取川の左岸にあり、古く万葉歌に「越智野」が詠まれ、
隣接する真弓岡や今城谷には、天武天皇と持統天皇の檜隈(ひのくま)大内陵や吉備姫王の檜隈墓など大王(天皇)家の墓が残されている。→ 天武・持統天皇陵 吉備姫王墓 カナヅカ古墳
日本書紀の天智天皇六年(667)条に斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬した「小市岡上陵(おちのおかのえのみささぎ)」とその陵の前に「大田皇女」が葬られたことが記されている。
間人皇女は、斉明天皇の娘で孝徳天皇の后、そして大田皇女は斉明天皇の孫で天智天皇の娘にあたる。
小市岡(越智岡)は、斉明天皇ゆかりの女性が眠る地と紹介されている。
なお、益田岩船、石の宝殿について、牽牛子塚古墳の横口式石槨との関連が指摘されている。
猪熊兼勝氏は、「飛鳥の古墳を語る(平成6年刊)」において、
「益田岩船、石宝殿は斉明陵として墓室を造る途中、予期しなかった亀裂が生じ、未完成として残った石塊である」
としている。
益田岩船については、上記の猪熊氏の著書に、亀裂についての説明がされている。
石の宝殿については、日本書紀の天智天皇6年2月条に、「石槨の役(いわきのえだち)(横口式石槨の墳墓の造営)を起さしめず」と記されていることから、
万民のために造営を中止したものであるとの説がある。
→ 近畿文化会 臨地講座 益田岩船(後編) 牽牛子塚古墳を解説 石の宝殿の正体 石の宝殿及び竜山石採石遺跡
近鉄吉野線飛鳥駅から徒歩15分。アグリステーション飛鳥に来訪者用の駐車場がある。
13 藤原宮跡
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特別史跡 藤原宮跡は、奈良県橿原市にある。
藤原京は、持統天皇8年(694)から和銅3年(710)までの16年間、持統・文武・元明天皇の三代にわたる都であった。
日本初の本格的な都城で、日本の首都は皇居を意味する「宮」から国の都を意味する「京」となった。
藤原宮は、その中心部にあり、大きさはおよそ900m四方で、周りを大垣(高い塀)と濠で囲み、各面に3カ所ずつ門が設けられていた。
中には天皇が住む内裏、政治や儀式を行う大極殿と朝堂院そして役所の建物などが立ち並んでいた。
大極殿は、重要な政治や儀式の際に天皇の出御する建物である。赤く塗った柱を礎石の上に建て、屋根を瓦で葺くという日本では最初の中国風の宮殿建築であった。
建物の大きさは、正面9間(45m)、側面4間(20m)、基壇を含めた高さは25mを越え藤原京では最大である。
現在は基壇の跡だけが残り、「大宮上壇」と呼ばれている。
昭和10年(1935)に、日本古文化研究所がこの土壇を発掘調査し、藤原宮解明の端緒となった。
現在藤原宮跡と推定されているのは、現高殿町、縄手町、醍醐町、別所町にまたがる約100haの地域で、その中心部分の50haが国の特別史跡として指定され保存されている。
近鉄橿原線八木西口駅下車、徒歩30分。来訪者用の駐車場がある。


14 大官大寺跡
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史跡 大官大寺跡は、奈良県高市郡明日香村にある。
大官大寺は、「日本書紀」「大安寺伽藍縁起」などの文献資料に、「だいかんだいじ」あるいは「おおつかさのおおでら」と記されており、藤原京の条坊内に建立された最初の国家寺院である。
また、大官大寺は百済大寺(吉備池廃寺)から高市大寺(たけちのおおでら)、大官大寺、そして大安寺と移転しながら変遷することが記録にある。
昭和48年(1973)からの発掘調査により、中門、金堂、講堂が南から北へ並び、中門と金堂をつなぐ回廊の中の東部に塔を配する伽藍配置であることが明らかとなった。
回廊で囲まれる範囲だけでも東西144m、南北195mの大きさになり、奈良時代の東大寺の創建当初の回廊規模と同じで、塔は基壇の規模から九重(高さ約80m)であったと推定されてiいる。

15 本薬師寺跡
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本薬師寺跡は奈良県橿原市城殿町にある国の特別史跡である。
日本書紀によると、本薬師寺は、680年に天武天皇が皇后(持統天皇)の病気平癒を祈念して発願した寺である。
その後創建に着手されたが、完成を見ないうちに天皇が死去したため、持統天皇がその遺志を継ぎ、17年後の698年に伽藍がほぼ完成した。
当時は薬師寺として飛鳥大寺の一つに数えられたが、平城遷都に伴い、718年に寺も右京六条二坊に移された。
寺が移転した後も、平安時代中頃まで伽藍の存在が確認でき、その頃には、平城京の薬師寺に対して、本薬師寺と呼ばれるようになった。
現在は小堂とともに、金堂、東塔、西塔の基壇と礎石が残されている。
史跡周辺の休耕田1.4haでは、地元の農家などでつくるまちづくり団体「城殿町霜月会」がホテイアオイ約1万4千株を栽培している。
8月下旬から9月中旬にかけて、薄紫色のホテイアオイの花が一面見頃となる。
近鉄橿原線畝傍御陵前駅から徒歩10分。

16 天武・持統天皇陵古墳
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天武・持統天皇陵(檜隈大内陵)は、奈良県明日香村野口にある。
野口集落の西方の丘陵上に位置する壮大な古墳で、野口大墓(のぐちおおはか)、青木御陵(あおきのみささぎ)とも呼ばれ、天武、持統両天皇を合葬した「檜隈大内陵(ひのくまおおうちのみささぎ)」に治定されている。
大内陵は持統天皇元年(686)10月、草壁皇子以下により築造され、翌2年11月11日天武天皇を葬り(日本書紀)、天皇として初めて火葬された持統天皇が大宝3年(703)12月26日合葬された。(続日本紀)
陵墓は文暦2年(1235)に盗掘され、その際の調査記録である「阿不幾乃山陵記(あお(ふ)きのさんりょうき)」や藤原定家の「明月記」に内部の状況が詳細に描かれている。
阿不幾乃山陵記によると、墳形は八角形で五段築成、周囲に石段がめぐらされている。→ 八角墳と天皇陵
切石積みの石室は、前室と奥室の二室で、天武天皇の夾紵棺(きょうちょかん)(麻布と漆を塗り重ねた棺)と、持統天皇の金銅製骨蔵器(こつぞうき)が納められている。
古くは「王(皇)ノ墓」と呼ばれたこの古墳は、江戸時代から明治初期まで文武天皇の檜隈安古岡上(ひのくまのあこのおかのへ)陵とみなされることが多かった(天武持統合葬陵は現橿原市の「五条野丸山古墳」とされた)が、
明治13年(1880)に阿不幾乃山陵記が知られ、明治14年(1881)に治定の変更が行われた。
天皇陵古墳の中で被葬者がほぼ特定でき、築造実年代が確定できる数少ない古墳である。
なお、「五条野丸山古墳」は、奈良県最大の前方後円墳で、被葬者は欽明天皇や蘇我稲目などの名前が候補として挙がっている。→ 丸山古墳
現在の墳丘は、南北約50m、東西約45m、高さ約9m、周囲約120mで八角形に近い形となっている。
また墳丘の位置は、藤原京の中軸である朱雀大路の延長線上にあり、計画的な墓地選定を指摘する説もある。
近鉄吉野線飛鳥駅下車、徒歩15分。東南麓に駐車スペースがある。

17 中尾山古墳
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史跡 中尾山古墳は、奈良県明日香村の国営飛鳥歴史公園高松塚周辺地区内にある。
中尾山古墳は、江戸時代に「中尾塚・中尾石墓」とも呼ばれた終末期古墳で、周辺には高松塚古墳や天武・持統天皇陵など多くの終末期古墳が点在している。
昭和45年以降令和2年度までに行われた測量や発掘調査により、墳丘は三段築盛で、その周囲をめぐる三重の外周石敷を有する八角墳であることが判明した。
墳丘は版築で築かれ、対辺長19.4m、高さ4m以上の規模である。
墳丘の一段目、二段目の表面は、ともに裾部に花崗岩の根石を並べ、その上に拳大から人頭大の石材を小口積にして、さらに上部に根石同様の石材を垂直に積み上げた基壇上の石積みとなっている。
墳丘の三段目は版築の盛土のみで八角形に整形されている。三段目の東側に鎌倉時代の盗掘孔がある。
外周石敷は墳丘の裾部から三重にめぐっており、外周石敷の対辺長は、三重目で約32.5mである。
墳丘周囲の石敷きから沓形の凝灰岩製の石造物が二点出土しており、形状等から墳頂に置かれていたと考えられている。 → 奈良県歴史文化資源データベース
埋葬施設は底石1石、側壁2石、奥壁1石、閉塞石1石、天井石1石、隅石(柱石)4石の合計10石の切石で構成された横口式石榔である。内法は幅及び奥行各90cmであった。
石榔壁面は非常に丁寧に磨かれており、前面に水銀朱が塗布されている。
床面の中央部は60cm四方、深さ1cmの範囲が凹状に削り込まれている。ここに火葬骨を納めた骨蔵器を安置する台があったと考えられている。
この骨蔵器は、現在失われているが、明治時代に和田村から出土したとされる金銅製四鐶壺(こんどうしかんこ)が本来中尾山古墳から出土したものではないかと推定されている。
この金銅製四鐶壺は、明治11年に古宮の水田で出土し、明治12年に御物となって、現在は宮内庁三の丸尚蔵館所管となっている。
被葬者については、第42代天皇の文武天皇に比定する説が有力視されている。
文武天皇は慶雲4年(707)6月15日に25歳で崩御した。
墓所については、「続日本紀」では「檜隈安古山陵」と記載されている。
慶雲4年(707)10月3日に造山陵司を任じ、11月12日に遺骸を飛鳥岡で火葬、11月20日に陵に葬り奉ると記されている。
一方、「檜隈安古山陵」は、「延喜式」では「檜前安古岡上陵」と記載されている。
「檜隈安古岡上陵」と記された書物、文献が下記のように江戸時代から数多くあり、「中尾山古墳」「高松塚古墳」「栗原塚穴古墳」が該当の古墳と推定されている。
宮内庁は、栗原塚穴古墳を文武天皇陵として治定している。
| 古墳名 | 中尾山古墳 | 高松塚古墳 | 栗原塚穴古墳 |
| 文献等 | 並河 誠所(大和誌) | 本居 宣長(菅笠日記) | 谷森 善臣(山陵考) |
| 秋里 籬島(大和名所図会)? | 秋里 籬島(大和名所図会)? | 宮内庁治定 1881年 | |
| 津川 長道(卯花日記) | 安政の修陵(大和帝陵図) |
令和6年(2024)1月開催の「高松塚壁画館 冬季企画展 中尾山古墳展」では、
令和2年の発掘調査により、
天皇陵として特徴的な八角墳であることや、埋葬施設が骨蔵器を納めた火葬墓と想定されることなどから、
中尾山古墳が「檜前安古岡上陵」 つまり文武天皇の真陵である可能性は高いと考えられる
としている。
→ 飛鳥古代史チャンネル

18 キトラ古墳
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特別史跡 キトラ古墳は、奈良県高市郡明日香村阿部山にある。
キトラ古墳は、7世紀末から8世紀初め頃に造られた古墳で、丘陵の南側斜面に位置している。
墳丘は二段築成の円墳で、発掘調査の成果などから、下段の直径が13.8m、上段の直径が9.4mと推定されている。
内部には二上山産凝灰岩の切石を18枚組み合わせて作られた石室がある。
石室内部は奥行2.40m、幅1.04m、高さ1.24mの大きさで、鎌倉時代に盗掘を受けているが、刀装身具、琥珀玉などの副葬品の一部と、木棺片や棺の飾金具、人骨などが出土している。
昭和58年に行ったファイバースコープによる石室内部の探査で、北壁に玄武が描かれていることが分かり、高松塚古墳に次ぐ我が国で二例目の大陸的な壁画古墳であることが明かとなった。
石室内には、四神、十二支、天文図、日月の壁画がある。四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)は天の四方を司る神獣で、四周の壁面に対応する方位に合わせて描かれている。
日本で四神の図像全てが揃う古墳壁画は、キトラ古墳壁画のみである。
四神の下には、獣頭人身の十二支が描かれており、現在、子、丑、寅、午、戌、亥の6体が確認されている。
屋根形の刳り込みのある天井には、東の斜面に金箔で太陽が、西の斜面に銀箔で月が表されている。
天井の平坦面の部分には円形の中国式の天文図が描かれている。
渡部潤一氏「古代文明と星空の謎」によると、描かれている星座は奈良のものではなく、古墳造営から200年以上前に西安や洛陽で観測されたものだという。
この天文図は、赤道や黄道を示す円を備えており、本格的な中国式星図としては、現存する世界最古の例である。
キトラ古墳は、平成12年に特別史跡に指定され、令和元年に壁画が国宝に指定されている。
キトラ古墳壁画体験棺 四神の館で、壁画が公開されており、古墳についての展示がある。
近鉄吉野線壺阪山駅下車、徒歩15分。来館者用の駐車場がある。
19 高松塚古墳
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特別史跡 高松塚古墳は、奈良県明日香村にある。
高松塚古墳は、7世紀末から8世紀初め頃に造られた古墳である。
昭和47年(1972)の発掘調査で石室内に描かれた壁画が発見された。
墳丘の内部には、16枚の凝灰岩の切石を箱型に組んだ石室(内部の奥行265.5cm、幅103.4cm、高さ113.5cm)があり、
その内面に漆喰を下地として、壁に色鮮やかな男女群像や青龍、白虎、玄武、日・月像、天井に星宿が描かれていた。
こうした壁画古墳は、日本では高松塚古墳とキトラ古墳しか知られていない。
石室は中世に盗掘されていたが、太刀の飾金具や銅鏡、ガラス玉などの副葬品の一部と、漆塗り木棺の破片などが出土している。
壁画の発見後、石室南側に保存修理のための施設を建設し保存対策を行ったが、壁画の劣化を止められず、平成17年に石室ごと取り出して修理することを決定した。
平成19年に石室を墳丘から取り出し、約500メートル離れた仮設修理施設で修理作業が進められた。
現在の高松塚古墳は、発掘調査の成果をもとに、築造当時の姿(下段部直径23m、上段部直径18mの2段築成の円墳)に復元したものである。
古墳西側には高松塚壁画館があり、再現された彩色壁画が展示されている。
近鉄飛鳥駅下車、徒歩15分。

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