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前田玄以供養塔は、和歌山県高野山奥の院26町石北東にある。
奥の院中の橋から参道北側に入ったところにある高遠藩 高須家供養塔の西北側約30mのところに、前田玄以の宝篋印塔がある。
岩堀元樹氏「高野山奥之院墓碑総覧」によると、前田玄以死去の約2か月前に建立された逆修塔である。
宝篋印塔の格狭間(こうざま)には、次のように刻されている。
慶長七年
前徳善院殿天涼以公
三月八日大□□位
前田玄以(1539-1602)は、安土桃山時代の武将。名は宗向、号は徳善院、半夢斎(はんむさい)。通称を民部卿法印(みんぶきょうほういん)と称した。もと尾張 小松寺の住職とも伝えられるが明らかでない。
織田信忠に仕え、本能寺の変に際して信忠の子 三法師(のちの織田秀信)を託され尾張に逃れた。この功により織田信雄から京都奉行を命ぜられたという。
また一説には豊臣秀吉の祐筆を勤めていたのを抜擢されたともいう。
天正13年(1585)に丹波亀山5万石を領した。慶長3年(1598)豊臣秀吉が五奉行の制を定めるとその一人となり、おもに禁裡御用地、門跡領、寺社領の管理などを担当した。
関ケ原の戦いでは、大坂城の留守居を務めたが、戦後所領を安堵された。
慶長7年5月7日大坂にて病没。享年64。法名は「徳善院殿天涼以公大居士」。京都の妙心寺 蟠桃院に葬られた。

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