太田城跡碑

太田城跡碑は、和歌山市太田の来迎寺境内にある。
太田城跡について、来迎寺山門横の案内板に次のように記されている。(一部句読点など改変)

太田城跡(おおたじょうあと) 令和8年(2026)3月 和歌山市

 来迎寺周辺は、岡山県備中高松城、埼玉県忍(おし)城とともに日本三大水攻めのひとつに数えられる戦国時代の太田城の本丸跡があったとされる場所である。
城の規模は、太田城の周囲にめぐる堀や遺構・遺物の分布から、東西約450m、南北約350mで、室町時代に前身の集落が形成され、その後城塞化したと考えられる。
発見された堀は明治時代の地籍図の水路の位置とおおむね重なることから、当初は水路として整備された可能性が想定できる。

 天正13年(1585)、羽柴秀吉は約10万人とされる大軍を率いて太田城を攻め、総延長約5kmにもおよぶ堤防を築き、水攻めをおこなった。
当時、太田城には女性や子供を含む雑賀・根来衆の残党約5,000人が籠城し、1か月程抵抗したが和睦し、太田城側の武将53名が処刑され、残りの百姓は武装解除を条件に赦免されている。

 ここから北東約50mには、戦死者の首を埋葬した塚の一つである小山塚、北東約700mの出水地域には水攻めの際に秀吉が築いた堤跡(和歌山県指定文化財)が残っている。
なお、市内の橋向丁にある大立寺の山門(和歌山市指定文化財)は太田城の東側にあった大門を移築したものと言われている。


当地の太田城跡石碑は、紀州徳川藩第15代当主の徳川頼倫(よりみち)が揮毫したものである。




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