応其上人ゆかりの地(奥の院関係)


興山応其上人廟

興山応其上人廟は、和歌山県高野山奥の院御供所南東にある。
応其(おうご)(1536-1608)は、戦国から安土桃山時代の真言宗の僧である。
諱(いみな)は、日斎、字(あざな)は、順良である。
通称、木食(もくじき)上人、興山(こうざん)上人、木食応其とよばれる。
近江国蒲生郡観音寺に生まれ、近江の佐々木氏、大和の越智氏に武士として仕えたが、主家の滅亡後、天正元年(1573)に高野山に登って出家し、穀物を断って木実果実のみを食し、13年にわたり木食苦行を積んだ。
天正13年(1585)、豊臣秀吉が根来寺の攻略の後、高野山を攻撃しようとした時、粉河の陣中に応其が参じて秀吉を説得し、その援助によって高野山を復興した。
豊臣秀吉が応其を深く信任して「高野の木食ではなく、木食の高野である」と称したことは、よく知られている。
高野山では客僧の身分であったが、新たに興山寺、青厳寺(せいがんじ)を建立した。
山上の堂宇は金剛峯寺金堂など25棟、近畿はじめ諸国の同宇79棟を再興修理したという。
戦(いくさ)の終結にも尽力し、島津氏の降伏、富田信高の津開城、京極高次の大津開城などで活躍したが、徳川家との関係は良好でなかったため、遺跡を弟子の勢誉に譲り、近江飯道寺に隠棲し、同地で没した。
高野山奥の院には、当地の興山応其上人廟のほか、興山上人一石五輪塔がある。
また、滋賀県甲賀市飯道山には、木食応其上人入定窟がある。





興山上人一石五輪塔

興山上人(応其上人)一石五輪塔は、和歌山県高野山奥の院32町石南東にある。
安芸浅野家供養塔の東側で、尾張徳川家供養塔との間に位置している。
総高88.5cmの五輪塔地輪には、次のように刻されている。
天正十九辛卯應其
(梵字)興山上人
春二月初三日壽位

応其(1536-1608)は、天文5年(1536)近江国蒲生郡観音寺に生まれた。俗姓は佐々木順良(むねよし)といい、主家の大和の国高取城主の越智泉が没落したため、紀伊の国伊都郡相賀荘に移り住んだ。
37歳の時、出家して高野山に登り、名を日斎房良順のちに応其と改めた。
高野山では米麦を絶ち木の実を食べて13年間仏道修行を積んだため、木食上人と呼ばれた。
1585年豊臣秀吉が根来寺の攻略の後、高野山攻撃を企てた時、高野山を代表して和議に成功し、秀吉の信任を得て高野山再興の援助を受けた。
そのため、興山上人と呼ばれている。
五輪塔の建立された天正19年(1591)は、応其56歳で京都及び高野山で活動していた時期である。

高野山奥の院の頌徳殿南側に、「興山応其上人廟」がある。




興山寺 量與法印他供養塔

興山寺 量與法印他供養塔は、和歌山県高野山奥の院32町石南東にある。
安芸浅野家供養塔の東側で、尾張徳川家供養塔との間に位置している。
5基の石塔が横一列に並んでおり、各石塔の概要は次の通りである。
(水原堯榮氏「高野山金石図説」参照)

 写真番号  供養者名  没年等  形状  備考
 ① 興山寺
第6世法印
量與大和尚位
正徳5年
12月5日
角石
高さ3尺5寸
 施主江戸赤阪
 山口元澤
 ② 興山官寺
第5世
木食法印雲堂
元禄5年
4月9日入寂
五輪
高さ3尺5寸
 
 ③ 権大僧都
法印大和尚位
立詮公(冥福)
寛文3年
8月12日入滅
五輪
高さ3尺2寸
 
 ④ 法印應昌 正保2年
5月24日
五輪
高さ5尺
 ⑤ 應其
興山上人
天正19年
2月3日
五輪
高3尺
 興山上人一石五輪塔


高野山奥の院33町石

高野山奥の院33町石は、和歌山県高野山奥の院の豊臣家墓所の北にある。
豊臣家墓所摂津尼崎 青山家供養塔の間に位置しており、33町石の後方には、下野宇都宮藩主 本多正純供養塔がある。

町石地輪には、次のように刻されている。(松山健氏「高野山町石道」参照)
(東面)(梵字)(金剛鉤菩薩)卅三町 興山上人
(北面) 為自他法界平等利益
(南面) 天正十八年辛未七月廿一日
(西面) (梵字)(金剛挙菩薩)

この町石は鎌倉時代以降、約三百年経って再建された唯一のもので、寄進者は興山上人(応其上人)である。
応其は、天正13年(1585)豊臣秀吉が高野山攻略を企図した時、宥全、快言を伴って粉河の陣で秀吉と面会して一山の無事を懇願し、さらに良雲空雄師とともに和議を結ぶ働きをした。



文禄四年木食応其上人五輪塔

文禄四年木食応其上人五輪塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院弘法大師御廟と燈籠堂の間にある御所芝内の西にある。(水原堯榮氏「高野山金石図説」参照)

和歌山県立博物館「特別展 没後四〇〇年 木食応其」では、「応其ゆかりの史跡」の中で、次のように紹介されている。
御廟前の御所芝には、文禄四年(1595)に建てられた応其の供養塔(五輪塔)があり、応其の事蹟が記されています。
この碑文によると、応其は、木食行(もくじきぎょう)(五穀・十穀を絶つ修行)といわれる難行を行ったことで有名ですが、この碑文にはその修行の内容も詳しく記されています。
応其は、「木食上人」と呼ばれていますが、その所以はここにあります。応其は、厳しい修行を通じて、多くの信者を得たようです。

上記 水原堯榮氏「高野山金石図説」には、次のとおり五輪塔(高さ九尺六寸)地輪各面の銘文が記されている。
(日野西真定氏「奥院石塔を中心とする高野山信仰の諸問題(其の一)密教文化所収」をもとに一部修正)

夫木食興山上人字深覺諱應其
江州佐々木産少年長儒歌道壮
歳成武勇功而後天正元仲冬五
日三十八歳頻(頃)遁世於南山?求菩
提心受    戒於政遍阿
闍梨入(梵字)秘密心壇徳(續)
諸流血    脉(?)之爲遣弟
初入此山目(日)伏觀僧侶行跡仰見
伽藍傾側忽發可致禮樂於高祖
上世願食木實被麻草屋修難行
毎日山中入堂一石一禮書經無

言閉戸聞持両度乾断食三度沫摩
卅度其外別行等(不)勝計宿不家寝不
荷床見鳥獣無垂屍□廻向有寒
飢□奉則代其苦起居動静不絶
口密    呪懸一衣一鉢
不出(梵字)十餘年□□織
田信    長欲滅當山時
初赴江州?(履)虎尾臨鰐口廻秘計
救其難不夾遇 大政豊臣秀吉
公如股肱臣己入鎮西関左陣代
數萬軍民死動安此山難三箇度

就中最初當所権現修造之刻枕
臨夢中 待出花之種續朝哉
寔至龍華期可継法燈瑞也自是
始金堂大塔奥法?塔等(寺)中山下
(梵字) 諸伽藍無不一
     宇預其修力
於他邦住吉初瀬社(壮)室生安
祥宮吉田清水鎮守東寺誓願塔
堂得長壽院卅三間修復東山之
大佛殿諸宇厳島御山堂大峯宿
其外所々興隆凡七十餘ケ所?

為国民撫育新築池堤塘五十餘所
此等願思則遂企則咸承聞龍王
自授摩尼云云不然豈無量財不
招来廣    大願不幾満乎人
言非(梵字) 造物(功)者無盡
蔵也     偏三地大聖
之後     身□(顧)仍浴恩
澤嘆其行徳弟子某等?奉建
此一基云云
干時文禄第四龍集乙未歳
 仲秋時正日 敬白

(写真撮影禁止区域のため、写真はありません。)


奥の院 一切経蔵

奥の院 一切経蔵は、和歌山県高野山奥の院燈籠堂の東北にある。
資料によっては、「経蔵」「奥院経蔵」「一切経蔵」「金剛峯寺奥院経蔵(おくいんきょうぞう)」とも記されている。

江戸時代に作成された紀伊続風土記には、次のように記されている。
〇経蔵
寶形造 方三間 檜皮葺 高麗本の一切経を収む

経蔵正面の扁額には、次のように記されている。
(表面)
當輪蔵造営同
一切経奉納之
近江国坂田郡
石田治部小輔
藤原朝臣三成
為慈母菩提也

(裏面)
本願木食興山上人深覚房応其
金剛峯寺奥院経蔵之銘
慶長四己亥年三月二十一日記之

このように正面の扁額に、石田三成が母堂の菩提を弔うために、慶長4年(1599)に建立したことが記されている。
また、高野山使僧として豊臣秀吉との交渉にたずさわり、和睦を取りまとめた上で金堂や大塔の再興にあたった木食応其が本願であったことも確認できる。

塗装のない白木で簡素な外観となっているが、内部の壁面には、極彩色で羅漢図が描かれ、柱頭や長押には華やかな彩色が施されている。
間仕切りのない経蔵内部には、本尊文殊菩薩騎獅像を正面に、中央に輪蔵(りんぞう)と呼ばれる経典を納めるための八角形平面の棚が設けられ、高麗版一切経6285帖が納められた。
大正11年(1922)に重要文化財に指定されている。

(写真撮影禁止地域のため、写真はありません。)




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