住吉神社(大和田住吉)、判官松之跡碑は、大阪市西淀川区大和田五丁目にある。
判官松之跡碑横の案内板には、次のように記されている。
”判官松の由来”
平家物語巻第十一巻逆櫓の記述によれば
「元暦二年二月三日九郎大夫判官義経都をたって摂津国渡辺(今の堀江)より
ふなぞろへして八嶋へすでによせんとす、三河守範頼も同日都をたって
摂津国神崎(今の西淀川)より兵船をそろへて山陽道におもむかんとす」とある。
平家追討の軍勢は折からの台風の襲来にあい一時退避を余儀なくされ、陣を張ったのがこの地である。
その時義経はあらためて住吉大明神に海上安全の祈願をし一本の松の苗を手植えした。
それが「判官の松」の由来である。
亦一説に義経の軍が流れ着いた時、大和田の庄屋が鮒の昆布巻を献上しこまごまと生活の煩事を援助した。
喜んだ義経は食事の箸を地中に立てその意を天に示した。
どうしたことかみるみるうちに生きかえり松の葉に生長した。
尚この庄屋に「鮒子多(ふじた)」の姓を与えたとも伝えられている。
(大和田墓地に鮒子多家の塚と墓石が現存している)
爾来この判官の松は年と共に天を突き沖を往き交う船人たちに航海の指針として親しまれた。
明治十年雷火のために不幸にも焼失の災にあい
今はその大要を地元青年団が石に刻み後世に伝えている。
(中略)
平成十二年(二〇〇〇)
大和田郷土史会
石碑には、次のように刻されている。
(表面)
判官松之跡
大阪市長 坂間棟治書
(裏面)
史蹟判官松記要
元暦二年二月十六日判官源義経平家追討軍ヲ率イ大物浦ヲ厳ジテ四国ニ向フ
途中暴風雨ニ遭ヒ漂流シテ大和田浦ニ着岸ス
乃〇ノ地ニ陣シ海上安全を當村住吉大明神ニ祈願シ更ニ兵船ヲ整ヘ十八日未明順風ヲ利シテ征途ニ上ル
當時義経陣中ニ一松樹ヲ手栽シ以テ記念トナス
里人呼ンテ判官松ト云フ尓耒星霜七百年樹容壮麗西摂ノ一名勝トシテ遠近ニ著聞セラレシ而己ナラス
淀川尻ノ示票トシテ殊ニ船人ノ親シム所タリシニ惜ムヘシ
明治十年雷火ノ為ニ焼失ノ災ニ罹ル當時目通幹圓十尺〇
今茲昭和十六年十一月遺蹟ノ湮滅ヲ惧レ大要ヲ石ニ勒シ以テ後世ニ傳フト云尓
大和田青年團
TOP PAGE 観光カレンダー
TOP PAGE 观光最佳时期