蓮華定院 真田家墓所

蓮華定院 真田家墓所は、和歌山県高野山一心院谷にある。
墓所内には、主に大型五輪塔が二基建立されている。

向かって右(南側)の扁額には、「大鋒院」と刻されており、奥の大型五輪塔(総高439cm)は真田信之(信幸)公の供養塔である。
地輪には、次のように刻されている。
奉爲信州埴科郡松城之城主
 從五位下前真田伊豆守
 滋野朝臣信幸公道諱
     大鋒院殿徹巌一當
(梵字)
     大居士一周忌追善也
大施主真田右衛門殿爲祖父
造建之
旹萬治二歳次巳亥十月十七日
 
向かって左(北側)の扁額には、「圓陽院」と刻されており、奥の大型五輪塔(総高437cm)は真田信政公の供養塔である。
地輪には、次のように刻されている。
奉爲信州埴科郡松城之城主
 前真田内記從五位下
 滋野朝臣信政公道諱
     圓陽院殿威良一中
(梵字)
     大居士一周忌追福也
大檀主孝子真田右衛門殿造立之
旹萬治二歳次巳亥二月五日

真田信之(1566-1658)は、織豊、江戸時代前期の大名である。永禄9年に真田昌幸の長男として生まれた。初めは、信幸と称した。
慶長4年(1989)、徳川家康に出仕し、その将 本多忠勝の女(むすめ)を娶り、ついで上野(こうずけ)(群馬県)沼田城主となった。
慶長5年(1600)会津出陣を命じられ、父昌幸、弟信繁(のちの幸村)と共に下野(栃木県)犬伏(いぬぶし)に陣しているとき、石田三成の密使が訪れ、父と弟は石田方について徳川の陣を離れたが、信之は徳川秀忠の本陣へ駆けつけて東軍についた。
関ケ原の戦いの後、石田方についた父と弟の助命をゆるされ、慶長6年上田城主を兼ねた。
元和8年(1622)松代に移封となり、松代藩真田家初代藩主(10万石)となった。
万治元年10月17日、93歳で死去。墓所は、長野市の大鋒寺にある。
当地の供養塔は、信之の一周忌に、信之の孫の真田右衛門(幸道)が建立したものである。

真田信政(1597-1658)は、江戸時代前期の大名である。
慶長2年(一説に慶長元年)に真田信之の次男として生まれた。
大坂の陣では、徳川家康に従った。寛永16年上野沼田藩真田家4代藩主となり、父の隠居で、明暦2年信濃松代藩真田家2代藩主となった。
明暦4年2月5日死去(62歳)。墓所は、菩提寺である真田山長國寺にある。
当地の供養塔は、信政の一周忌に、信政の子の真田右衛門(幸道)が建立した。



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