神仏習合について

神仏習合しんぶつしゅうごう 「日本大百科事典」項目

神仏習合

神道 (しんとう) 信仰と仏教信仰とを融合調和すること。習合とは、本来相異なる教義・教理を結合また折衷することであり、本地垂迹 (ほんじすいじゃく) 説がそれにあたる。
よって、厳密な意味での日本における神仏習合は、10世紀初期よりのち1868年(明治1)までに存したものであり、それ以前は単に神仏調和とでもいうべきであろう。

 日本への仏教伝来以降、聖徳太子の積極的な仏教奨励策、また仏教そのものの同化性のあったことも影響して、白鳳 (はくほう) 時代ころより神前で読経 (どきょう) ・写経などが行われ、天平 (てんぴょう) 時代より日本の神は仏道に帰依 (きえ) し、福業を修行しようと欲しているものとみて、そのための場として、神社に付属して神宮寺を建立したことなどは、神仏調和というべきことである。

神仏習合、本地垂迹説の成立時期について、『説法明眼論抄』には聖徳太子によってと記し、『元亨釈書 (げんこうしゃくしょ) 』では行基 (ぎょうき) よりと説き、『東大寺要録』『東大寺縁起』などでは空海 (くうかい) また最澄 (さいちょう) らよりと説くが、いずれも否定されるべきものである。その当時にすでにそのような思想、信仰が存したとのような証拠はない。

 その本地垂迹説とは、本地すなわちインドにおける絶対的な仏陀 (ぶっだ) が、人間を利益 (りやく) し、衆生 (しゅじょう) を済度 (さいど) せんがために、日本では神となって迹 (あと) を垂れるという説で、日本の神祇 (じんぎ) は、もとを尋ねるとみな仏であり、仏も神もみな、もとは一つであるとの説であり、中国ではその古代信仰と仏教との習合は、隋唐 (ずいとう) 以前六朝 (りくちょう) 時代よりあったとされるが、日本でその基礎となるような神観、仏観が生じ、本地垂迹説が生じたのは、10世紀に入ってからのことである。

『三代実録』のなかに「垂迹」の語はみられるが、ここでいう意味とは別の意であり、本地垂迹説としての実質的なその語の初見は、石清水八幡宮 (いわしみずはちまんぐう) 所蔵文書中の承平 (じょうへい) 7年(937104日付けの大宰府牒 (だざいふのちょう) のなかでである。すなわち、そこで筥崎 (はこざき) 宮・宇佐 (うさ) 宮の祭神に関連して「権現菩薩 (ごんげんぼさつ) 垂迹」と記されているのがそれである。

これよりして、およそそのころ本格的な神仏習合思想が生じたものとみられる。それがだれによって、いつ唱えられたか正確にはわからないが、その教団、教義より推して、仏教者側から唱えられたことは確かであろう。また、その当時においてそれはなお漠然としたものであり、どの神がどの仏の垂迹とのような段階はもう少し後のものとみられる。

 それより前、『延喜式 (えんぎしき) 』神名帳常陸 (ひたち) 国(茨城県)のなかに、大洗磯前 (おおあらいいそさき) 薬師菩薩神社、酒列 (さかつら) 磯前薬師菩薩神社、筑前 (ちくぜん) 国(福岡県)に八幡大菩薩筥崎宮、豊前 (ぶぜん) 国(大分県)に八幡大菩薩宇佐宮とのように菩薩号の4社がみられる。

この菩薩が仏教で唱える意味どおりに使用されたのかどうかに疑問はあるが、このような名が神につけられ、神社名とされることがあり、このようなことからしだいに本地垂迹説が生じてきたものとみられる。
寛弘 (かんこう) (10041012)ころには熊野権現、熱田 (あつた) 権現などの名もみえるようになり、『長秋記 (ちょうしゅうき) 』長承 (ちょうしょう) 3年(1134)の条に、熊野本宮の家津王子 (けつみこ) の本地は阿弥陀仏 (あみだぶつ) 、結宮 (むすびのみや) (牟須美 (むすびの) 神)の本地は千手観音 (せんじゅかんのん) 、早玉 (はやたま) 明神の本地は薬師如来 (にょらい) と記すように、一般にその本地がはっきりと示されるようになる。
以降、1868年、王政復古の実現とともに、復古神道 (ふっこしんとう) を基礎理念とした明治維新政府が発令したいわゆる神仏判然令(神仏分離令)によって神仏が分離されるまで、神仏習合した信仰や思想は、国民の間に広く浸透していたのである。
[鎌田純一]

神仏習合しんぶつしゅうごう 「世界大百科全書」項目

神仏習合

日本の伝統的な神祇信仰と大陸伝来の仏教が接触混淆した結果,生み出された宗教現象。最も古くは宇佐八幡宮が朝鮮の土俗的な仏教の影響を受け,巫僧集団を形成し,6世紀終りころすでに神宮寺をつくった。
8世紀になって気比神宮,若狭比古神社,多度神社などに神宮寺ができたが,東大寺大仏造立にあたり,伊勢神宮に祈願がこめられ,仏法帰依の神託を得,八幡神も大仏造立援助のため上京して東大寺鎮守となった。
こうした朝廷の積極的な習合政策と地方民間修行僧の布教活動によって神前読経・神宮寺建立は全国的に広がった。

平安前期には政界の暗闘と社会不安から御霊(ごりよう)(怨霊)信仰が盛行しそのたたりを鎮めるため密教徒は御霊会(ごりようえ)などを通じて読経・加持祈禱につとめ,御霊の成仏と利益(りやく)神への昇化を説いた。この風潮のなかで大陸伝来の疫神である牛頭天王(ごずてんのう)をまつる祇園社や道真をまつる天満天神が,祟(たたり)神から一転した利益救済の神として進出し,神祇界は個人利益的なものへと信仰を変化させ,仏像にならって神像を彫刻や絵画にあらわしまつる偶像崇拝的方向を帯びるにいたった。伊勢以外の神社はおおむね神宮寺別当の支配する宮寺組織になり,また原始的山岳信仰と密教が習合した修験道(しゆげんどう)が広まって修験者は加持祈禱による病気治療や信者の団体による社寺参詣の先導役(御師(おし))として民間に進出した。その代表的なものは紀州熊野信仰である。

 中世,習合思想のスローガンであった和光同塵(わこうどうじん)の語はその源は中国の道教にあるが,仏菩薩がその慈悲広大の光を隠し人間俗界の塵に交じって神とあらわれる化身的意味に用い,これを各地の神社について民衆にわかりやすく説くため歴史物語化した縁起の類がつくられ,これが絵巻物や本地物とよばれる一群の御伽草子となっていっそう普及した。

また密教の曼荼羅(まんだら)をまねて神祇の姿あるいは本地となる仏の像を並べ,これに社頭の風物を配した習合(垂迹)曼荼羅図がつくられたのは,社参の労を省き,日常生活のなかで御利益を祈る礼拝対象とせんがためであった。春日,八幡,日吉,熊野などの曼荼羅はとくにその数も多く遺存している(垂迹美術)。

 日本仏教は天台・真言両宗を中心として本覚門思想に重点をおき,衆生はすべて本来仏性を有し,人間も草木山川もそのままの形で成仏することを教えたところから修業練成より加持祈禱偏重に陥りやすく,その呪術的要素の重視が神仏習合に大きな地盤を提供した。
そこには体系的理論よりも現実的でしかも直観的多神教的な思考や生活慣習を好む日本人の民族性が背景となっていたのである。

1868317日政府は社僧の禁止,神社の別当あるいは社僧の還俗を令し,同28日重ねて神社より仏教的要素をいっさい撤去すべきことを通達し,ここに廃仏毀釈(はいぶつきしやく)の運動が起こり習合的宗教慣習はついに終止符を打った。
[村山 修一]


神仏分離しんぶつぶんり 「日本大百科事典」項目

神仏分離

神仏判然ともいい、主として明治維新直後に行われた新政府による神仏習合 (しゅうごう) の禁止と両者の分離を図る宗教政策をいう。

 仏教伝来以来、神道 (しんとう) は1000年余にわたって徐々に仏教と習合し、長らく神仏習合(神仏混淆 (こんこう) )の時代が続いた。近世になると儒学や国学の排仏思想によって、神道から仏教色を排除する動きが出現し、水戸藩(茨城県)や岡山藩、会津藩(福島県)で地域的な神仏分離が行われた。この排仏意識は幕末に至っていっそう強まり、水戸藩や薩摩 (さつま) 藩(鹿児島県)では過激な寺院整理が行われた。
また石見 (いわみ) 国(島根県)津和野 (つわの) 藩でも最後の藩主亀井茲監 (これみ) によって独自の神社・寺院改革が行われ、維新政府の宗教政策の青写真となった。

 維新政府は神祇官 (じんぎかん) を再興して祭政一致の制度を実現しようと、この津和野藩藩主亀井茲監や福羽美静 (ふくばびせい) 、大国隆正 (おおくにたかまさ) を登用し、最初の宗教政策ともいえる神仏分離を全国的に展開させた。
まず1868年(慶応4317日、神祇事務局は、諸国神社に仕える僧形 (そうぎょう) の別当 (べっとう) ・社僧に復飾(還俗 (げんぞく) )を命じ、ついで28日太政官 (だじょうかん) は神仏分離令(神仏判然令)を発して、
(1)権現 (ごんげん) などの仏語を神号とする神社の調査、
(2)仏像を神体とすることの禁止、
を全国に布告した。

これ以後全国の神仏混淆神社から仏教色がすべて排除されるが、近江 (おうみ) (滋賀県)日吉 (ひえ) 山王社のように過激な神仏分離が多発したので、太政官は同年410日には、神仏分離の実施には慎重を期すよう命じた。
しかし、政府の威令がいまだ行き届かず、苗木 (なえぎ) 藩(岐阜県)や富山藩などの各藩や政府直轄地では、地方官がこれを無視して強硬な抑圧・廃仏策を進めたため、寺院の統廃合など神仏分離を超えた廃仏棄釈 (きしゃく) とよばれる事態が1874年(明治7)ごろまで続いた。

[阪本是丸]

神仏分離しんぶつぶんり 「世界大百科全書」項目

神仏分離

明治初年に維新政府が天皇の神権的権威の確立のためにとりいれた神道保護と仏教抑圧のための宗教政策。維新政府は,1868年(明治1117日の第1次官制で神祇科を,ついで神祇事務局,神祇官をおいて,復古神道説の立場にたつ国学者や神道家を登用し,彼らに新たな宗教政策を推進させた。
同年313日に,祭政一致の制度にもとづいてすべての神社が神祇官の付属とされることが定められ,ついで僧形で神社に勤仕することが禁じられ,328日には,仏教語を神号とすること,仏像を神体としたり神社に鰐口・梵鐘その他の仏具をおくことの禁止などが定められた。
さらに,閏419日には,神職の者は家族にいたるまで神葬祭とするように定められた。

これら諸法令のうち,328日令が神仏判然令と呼ばれるもので,それ以後各地で実際に神仏分離や廃仏毀釈が行われ,神社に勤仕していた僧侶が還俗(げんぞく)して神職となったり,職業を失ったりした。
また,江戸時代には僧侶身分の者の支配をうけていた神職身分の者が,勢力拡大にこの機会を利用してはげしい廃仏毀釈を行う場合や,地域で藩政担当者などが廃仏毀釈を推進して神葬祭が強制される場合などがあった。

 神仏分離政策の基底にあったのは,神道を国教として宗教の側面から国民意識を統合しようとする神道国教化政策であった。
宣教使の設置(1869),大教宣布の詔(1870),宗門改めにかわる氏子調べの制度(1870),神社の社格と神官職制の制定(1871),東京招魂社,楠社など新しい神社の創建,伊勢神宮大麻の強制配布,教部省,大教院の設置と〈三条の教則〉の制定(1872)などは,その具体化の方策であった。
また,71年には,従来宮中に安置されていた仏像・位牌・仏具などがすべて泉涌寺(せんにゆうじ)へ移されて,宮中の神仏分離がなされ,皇族の葬礼はすべて神祇祭祀によることとなった。

 明治維新以前の日本の宗教は,神仏習合を基本的性格としていたから,神仏分離は,その当時実際に存在していた宗教や宗教施設を強行的に神仏に分割し,神道に有利な方向で日本人の宗教生活を編成替えすることを意味していた。
教部省,大教院が設置される72年を転機として,仏教にも活動の場が与えられたけれども,神仏習合のかたちをとった宗教活動と宗教施設の強制的な改編分離はその後もひきつづき,むしろ強化された。

そのため,これまで寺院のなかにあった地主神などが独立して大きな神社となったり,神仏いずれか明瞭でなかった宗教施設が神社になったりした。大峰山,出羽三山などの修験の山や富士山のような山岳信仰は,どちらかというと仏教的な色合いをもっていたが,山岳信仰も神道に組みいれられて,宗教施設の改廃や名称変更などが行われた。
村の氏神など地域の小祠も,仏像を神体としたり仏具をそなえたりしている場合が少なくなかったが,これら小祠でも神仏分離を徹底し廃合をすすめて,一村一社の氏神を定め,それを地域の宗教生活の中心にすえることも,重要な政策目標であった。
神仏習合の実態は,今日でも各地で観察できるとはいえ,明治初年の神仏分離政策によって基本的には解体し,神道と仏教とをまったく区別して意識する今日の社会通念が形成された。
[安丸 良夫]


廃仏棄釈はいぶつきしゃく 「日本大百科事典」項目

廃仏毀釈

江戸時代から近代にかけての仏教排斥思想。この思想は大別して二つの時期がある。
一つは朱子学の封建倫理の立場からの廃仏思想で、論旨は
1〕神仏習合を否定し、神と仏を区別する、
2〕寺が檀家 (だんか) 制度を利用し民衆より収奪することを批判し、仏教本来の救済思想に戻す、
3〕反権力的思想をもつ日蓮宗不受不施 (にちれんしゅうふじゅふせ) 派などの宗派を抑える、
などである。

論客は藤原惺窩 (せいか) 、林羅山 (らざん) 、熊沢蕃山 (くまざわばんざん) ら。その思想の影響は、幕府では1665年(寛文5)「諸宗寺院法度 (はっと) 」「諸社禰宜神主 (ねぎかんぬし) 法度」に現され、藩では1666年会津藩主保科正之 (ほしなまさゆき) 、水戸 (みと) 藩主徳川光圀 (みつくに) 、岡山藩主池田光政 (みつまさ) らの寺院整理政策、一村一鎮守制の実施に具体化された。
三藩ともほぼ半数の寺が破却、神仏習合は否定されている。この段階では神仏を分離することに意が注がれた。
 これに対しもう一つは幕末から明治維新にかけての廃仏棄釈で、それは国学、水戸学の「敬神廃仏」の思想による。その代表として天保 (てんぽう) 年間(183044)の水戸藩徳川斉昭 (なりあき) の廃仏棄釈がある。
このとき藩は190か寺を破却し、領内寺院から撞鐘 (どうしょう) 、半鐘、鰐口 (わにぐち) などを提出させ大砲の材料とした。
また寺請 (てらうけ) 制度を廃止し神道請 (しんとううけ) にかえ、村ごとに氏子帳をつくらせた。ほかに仏教的色彩の強い年中行事も廃止させた。
このような動きは幕末には全国各地の国学思想が強い所でも小規模ながら行われている。廃仏棄釈政策は1868年(明治1)政府の布達により全国で行われ、多くの寺が破却、仏像・仏具などの文化財が消滅した。
[圭室文雄]

廃仏毀釈はいぶつきしゃく 「世界大百科全書」項目

廃仏棄釈

明治初年の神仏分離と神道国教化政策のもとでの寺院,仏像,仏具などの破壊。中国では,北魏の太武帝による446年の廃(排)仏など4回にわたって大規模な廃仏(三武一宗の法難)がなされ,日本でも,1666年(寛文6)に水戸藩と岡山藩で寺院破却が行われた。
また長州藩と水戸藩の天保改革にさいして寺院整理や淫祠破却がなされたが,これは明治初年の宗教政策の源流と考えることができる。
廃仏毀釈という言葉は,これらすべてを指すともいえるが,一般的には明治初年のそれのことである。

 1868年(明治11月,成立したばかりの維新政府は,第1次官制のなかに神祇科をおき,復古神道説の立場の国学者や神道家を登用して宗教政策を担当させた。
天皇の神権的権威を確立するために,祭政一致がスローガンとされ,同年3月の一連の布告で神仏分離が命じられた。そのなかでも,仏教語を神号とすること,仏像を神体としたり神前に仏具をかざることなどを禁止した328日令は,神仏判然令として知られるもので,この布告を待ちうけていたかのように,比叡山麓の日吉山王社では仏像,仏具などのはげしい破壊が行われた。

江戸時代の大きな寺社では,僧侶身分の者が高い地位を占め,神職身分の者はそのもとに従属していたから,明治初年の一連の宗教政策は後者の勢力拡大の機会となり,寺院からの神社の独立や神社からの仏教的要素の除去などが全国的に行われた。
また,国学や水戸学の影響をうけた人物が藩政の実権をにぎり,藩政改革の一環として徹底的な廃仏をすすめ,藩士はもとより領民にも仏教信仰の放棄を強要して,神葬祭を行わせるような場合もあった。

津和野藩,苗木藩,富山藩,松本藩,佐渡,隠岐などはそうした事例として知られているが,廃仏の動きがはげしくなると,真宗の僧侶・門徒を中心にこれに反対する運動が高まり,菊間藩三河領や越前では,廃仏毀釈に反対する農民一揆がおこった。
明治政府は,最初のはげしい廃仏である日吉山王社の事件の直後に,私憤をはらすような破壊行為の禁止を命じ関係者を処分したが,7012月には地方管庁で勝手に寺院の廃合を行わないように命じて,仏教勢力との妥協をはかった。

そのため,地方寺院を廃絶する動きは収束されたが,山岳信仰など神仏習合的な宗教と宗教施設における仏教的要素の除去は,その後にむしろ強化された。
また,路傍や山間の小祠,石仏,石碑などの民俗信仰的な宗教施設の廃絶は,大規模な廃仏毀釈の嵐がすぎてからも,上からの文明開化の風潮のなかでさらに徹底して行われていった。
[安丸 良夫]


修験道しゅげんどう 「日本大百科事典」項目

修験道

日本古来の山岳信仰が、外来の密教、道教、シャーマニズムなどの影響のもとに平安時代末に至って一つの宗教体系をつくりあげたものである。
このように修験道は特定教祖の教説に基づく創唱宗教とは違って、山岳修行による超自然力の獲得と、その力を用いて呪術 (じゅじゅつ) 宗教的な活動を行うことを旨とする実践的な儀礼中心の宗教である。

 修験道の淵源 (えんげん) は、奈良時代に仏教や道教の影響を受けて、山岳に入って修行し、陀羅尼 (だらに) や経文の一部を唱えて呪術宗教的な活動を行った在俗の宗教者に求めることができる。
のちに修験道の開祖に仮託された役小角 (えんのおづぬ) もこうした宗教者の一人である。平安時代になると山岳仏教の隆盛とも相まって、天台・真言の密教僧のうち加持祈祷 (かじきとう) の能力に秀でた者は、験を修めた者――修験者――とよばれた。
また山伏ともよばれた。中央の修験者は熊野 (くまの) や吉野 (よしの) の金峰山 (きんぶせん) を拠点として、ここから大峰山 (おおみねさん) に入って修行した。

 中世期になると、このうち熊野の修験者は天台宗寺門派の聖護院 (しょうごいん) を本山にいただいて本山派とよばれる宗派を形成した。
また金峰山を拠点として大和 (やまと) (奈良県)の諸社寺に依拠した回国修験者は、中世末には真言宗の醍醐 (だいご) 三宝院の後ろ盾のもとに当山 (とうざん) 派とよばれる宗派を形成した。
このほか、羽黒山 (はぐろさん) 、英彦山 (ひこさん) など諸国の山岳にもそれぞれ独立の宗派が形成された。
これらの宗派は、それぞれ峰入 (みねいり) を中心とした儀礼や、その意味づけとしての教義や独自の組織をつくりあげて、宗教面のみならず政治的にも軍事的にも大きな力をもっていた。

しかしながら近世以降、修験者は地域社会に定着し、庶民の現世利益 (げんぜりやく) 的な希求にこたえて、加持祈祷、呪法、符呪などの呪術宗教的な活動に従事した。
近代初頭、修験道は明治政府の修験道廃止令によって廃止され、修験者は天台・真言両宗に包摂された。
しかしながら第二次世界大戦後相次いで独立し、現在は本山修験宗(総本山聖護院)、金峯山 (きんぷせん) 修験本宗(総本山金峯山寺)、真言宗醍醐派(総本山三宝院)、修験道(総本山五流尊滝院 (そんりゅういん) )などの教団を中心に活発な活動を行っている。
[宮家 準]

修験道しゅげんどう「世界大百科全書」項目

修験道

修験道は,日本古来の山岳信仰が外来の密教,道教,儒教などの影響のもとに,平安時代末に至って一つの宗教体系を作りあげたものである。このように修験道は特定教祖の教説にもとづく創唱宗教とは違って,山岳修行による超自然力の獲得と,その力を用いて呪術宗教的な活動を行うことを旨とする,実践的な儀礼中心の宗教である。

歴史

日本では古来山岳は神霊のいる他界としてあがめられてきた。しかし奈良時代になると外来の仏教や道教の影響をうけた宗教者たちが山岳で修行したうえで,陀羅尼(だらに)や経文を唱えて呪術宗教的な活動に従事するようになっていった。
のちに修験道の開祖に仮託された役小角(えんのおづぬ)(役行者)も,葛城山で修行した山林修行者の一人である。
平安時代になると,最澄,空海による山岳仏教の提唱もあって,密教僧たちも好んで山岳修行を行った。
醍醐寺を創建した真言宗の聖宝(しようぼう),比叡山の回峰行(かいほうぎよう)を始めた相応(そうおう)などはとくに有名である。
そして山岳修行の結果,加持祈禱においていちじるしい効験をあらわした密教僧は,修験者と呼ばれるようになった。
修験者は山に伏して修行したことから山伏とも呼ばれた。修験者は中央では吉野の金峰山(きんぷせん)や熊野を拠点として大峰山に入って,山上ヶ岳,小笹,笙(しよう)の岩屋,深仙,前鬼などの霊地で修行した。
彼らは,皇族や貴族の御嶽詣(金峰山参詣)や熊野詣の先達もつとめた。

 鎌倉時代初期には,中央では熊野を拠点とした熊野山伏,金峰山で修行した大和の諸大寺に依拠した回国修験者の二つの修験集団が形成された。
このうち前者の熊野山伏は三井寺の増誉が熊野三山検校になったのを契機として,鎌倉時代末には,聖護院を総本山とする本山派とよばれる修験教団になっていった。
一方後者の回国修験者も興福寺の後だてのもとに当山派と呼ばれる教団を作りあげた。しかし室町時代中期ごろから醍醐三宝院の管轄下に入り,聖宝を中興の祖に仮託して真言系の修験教団となっていった。
また羽黒山,彦山(英彦山)など諸国の山岳に依拠した山伏も,それぞれ独自の宗派(羽黒派,彦山派)を形成した。

修験者は中世期を通じて全国各地の山岳で修行し,また村々を遊行して,修行,呪術宗教的活動,芸能などの伝播から,はては間諜としてなど,多方面な活動を行った。
近世に入ると江戸幕府の政策もあって,全国各地の山伏は本山派か当山派のいずれかに所属させられた。
また遊行が禁止されたことから町や村に定着し,もっぱら加持祈禱や呪法などの呪術宗教的活動に従事した。
このころには修験者の影響もあって大峰山,富士山,木曾御嶽,白山,立山,出羽三山,石鎚山,彦山など全国各地の霊山で,庶民たちの講による登拝がしきりに行われた。

 近代初頭,修験道は明治政府によって廃止され,本山派の修験者は天台宗,当山派の修験者は真言宗に所属させられた。このときに神職になったり,帰農した修験者も多い。
しかし,第2次世界大戦後,真言宗醍醐派(総本山三宝院),本山修験宗(総本山聖護院),金峰山修験本宗(総本山金峯山寺(きんぷせんじ))などの修験教団が相ついで独立し,修験道はふたたび活況を呈している。

思想と儀礼

修験道の思想や儀礼は,峰入り修行による〈即身成仏〉という眼目を中心として展開する。
まず依経は,教義上は山中の森羅万象そのものを経とするというように,特定の経を立てないことを旨とする。しかし実際には,《般若心経》,《法華経》とくに普門品,本覚讃,陀羅尼,宝号などが好んで用いられた。
次に崇拝対象は,基本的には大日如来と金剛界・胎蔵界の曼荼羅(まんだら)(両界曼荼羅)とされているが,実際には大日如来の教令輪身といわれる不動明王や,その両童子が崇拝された。
また金峰山では役小角が感得した金剛蔵王権現,大峰八大童子,熊野山では熊野権現があがめられた。

 修験道では峰入り修行が行われる山岳は,大日如来の金胎の曼荼羅で,山中の自然現象はすべて,大日如来の説法であるとされる。
そして修験者は全体として大日如来と自己の成仏の可能性を示す衣体を身につけて山中に入り,崇拝対象をあがめて,成仏過程になぞらえられた十界修行をし,その最後の〈正灌頂〉で金剛界,胎蔵界の秘印を授かることによって即身成仏しうる,と教えられたのである。
即身成仏するということの意味は,正灌頂とあわせて授けられる〈柱源(はしらもと)供養法〉などによると,修験者自身が天と地を結ぶ柱になることを意味していた。
またこうした峰入り修行によって成仏したことをよりリアルに受けとめさせるために,峰中修行の際に,死,受胎,母胎内での生育,誕生を示す儀礼も行った。

 峰入り修行をおえた修験者は峰中で獲得した験力を示すために,火渡り,刃渡り,護法や動物霊を操作するなどの験術を行った(験競べ(げんくらべ))。
羽黒山の〈烏とび〉,吉野の〈蛙飛び〉などはこの例である。またその験力を用いて,小祠の祭,加持祈禱,卜占,巫術,調伏,憑きものおとしなど多様な活動を行った。
[宮家 準]








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