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筑後柳河藩 田中忠政供養塔は、和歌山県高野山奥の院31町石南東にある。
大津籠城戦死者追弔碑の10メートル東に位置している。
高さ約3メートルの五輪塔地輪には、次のように刻されている。
(水原堯栄氏「高野山金石図説」ほか参照)
爲前田中筑後守様施主御母儀妙壽院
前筑州太守傑岫
(梵字)
玄英大居士菩提
旹元和六年庚申八月七日 宿坊小坂坊
柳河藩(柳川藩)は、筑後国柳河(福岡県柳川市)に居城を置いた外様中藩である。
豊臣秀吉の九州征伐に先鋒を務め戦功をあげた立花宗茂が、13万2千石を与えられたのが柳河藩の始まりである。
宗茂は、関ケ原の戦いで西軍に属したために改易され、そのかわりに東軍に属した田中吉政が筑後一国32万5千石を与えられて入封した。
田中氏は、吉政の跡を継いだ田中忠政が、元和6年に後嗣のないまま没したため、絶家となった。
以降、立花氏が藩主となり明治維新まで続いた。
田中忠政(1585-1620)は、田中吉政の四男として生まれた。母は、国友与左衛門の娘 妙壽院である。
慶長14年(1609)に、父の跡を継ぎ、柳河藩主となった。
元和6年8月7日に36歳で死去。世継が無く除封。

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